JBIはなぜ中小企業のFileMaker未経験者/初級者に自作システム支援を始めたのか(前編)



ジャパン・ビット・イノベーションではメインにFileMakerを使用した業務IT化、業務効率化、売上UP戦略などの内製化をサポートしています。


その代表である永澤(ながにぃ)はなぜFileMakerで事業をしようと思ったのでしょうか。



FileMakerへの可能性


結論から申し上げますと、

『 FileMakerの可能性をものすごく感じたから 』

ということになります。





ではその「可能性」とはなにか?




FileMakerひとつあれば、「こんな情報管理ができたらいいな」が自分好みの形で作れて、→仕事が楽しくなる、→作業時間が減る、→人生を充足させる時間が増える、そんな「可能性」です。

そんな人が日本に増えることを助けたい、多くの人がより心豊かにくらす日本を創りたい、そのためにまずは僕が出来る FileMaker という手段を使って始めているところです。




この記事を書こうと思ったのは、僕自身の人生に照らし合わせてFileMakerの可能性を探るのも面白いなと思い立ったからです。

思い返してみると、僕の人生は割とオリジナルで随時カスタマイズを積み重ねており、FileMakerと共通する点があります。FileMaker はとにかく自分なりに "工夫" できるのが楽しいのです。

そうした「可能性」にご興味がある方に向けて書いてみます。




なお、僕の人生のカスタマイズはとても簡潔に書ききれないため笑、(前編)と(後編)の2部構成でご覧頂きたいと思います。




JBIはなぜ中小企業のFileMaker未経験者/初級者に自作システム支援を始めたのか

(前編)
  • FileMakerとの出会い
  • 人生の迷い、葛藤、そして旅
  • 自分はなにをして生きていけばいいのか
  • ビジネスの世界へ
  • FileMakerとの再会

(後編)
  • 唐突にやってきた試練
  • 試練を乗り越えFileMakerで仕事をすると決める
  • 成長させてくれた失敗
  • FileMakerの仕事を選んで良かった
  • 生産管理システムに挑む
  • 共に成長し、共に感謝し合えること
  • 未経験者や初級者にも可能性が拡がるFileMaker
(後編)を読む >



FileMakerとの出会い


僕がFileMakerと出会ったのは20年ほど前のことでした。

着メロデータを管理するアルバイトとして入社した会社がFileMakerを使っていたのです。

ご存知とは思いますが着メロとは着信メロディのことで、当時はガラケーの着メロが全盛でした。





着メロデータは音楽が得意なスタッフ(ミュージシャンが多かった)がMIDIという音データに変換して着メロを作ります。

毎日たくさんのMIDIデータと、元になる音源データをしっかり管理する必要があり、それをFileMakerとエクセルで行っていました。






僕がそのとき初めて扱ったFileMakerのバージョンは6でした。(2021年9月現在の最新バージョンは19)

最初はデータを入力したり検索するだけの簡単な仕事でしたが(まあ、アルバイトですしね)、そのうちレイアウトで少し修正してみたりスクリプトを作ってみたりと、少しずつできる範囲が拡がっていきました。

自分が「もっとこうしたいな」と思ったことが実際に形になるのは実に面白く、なにか痛快さに似た楽しさがありました。






着メロデータ管理の仕事は通算8年ほど続けました。

その間、僕自身のFileMakerのスキルはどんどんステップアップしていて、数千~数万レコード、数十人が使うようなシステムを作るようになっていました。

市場の縮小で数十人いたチームが5~6人程度まで減少したときは、FileMakerにより1人で4人分の業務を回るように改善もしました。

楽曲リストの受注から納品までFileMakerで一気通貫で管理、MIDI制作スタッフや外注へのスケジュール分配を行い、ボタン一つで指示書を発行する仕組みを作ったのです。






もうその頃にはすっかりFileMakerに魅了されていたかと思います笑

そんな僕ですが、決して理数系のコンピュータ人間ではありませんでした。



人生の迷い、葛藤、そして旅


僕がコンピュータを学んだのは大学卒業後のことです。新卒で入社した会社の研修が初めてでした。着メロの会社に入る前の会社です。

それまでの僕は、パソコン画面のデスクトップにあるショートカットアイコンを誤ってゴミ箱に入れだけでパニックになるほどでした。

大学の就職相談室にあったパソコンでその事件(笑)は起きましたが、知らぬ振りでそそくさと逃げ去ったことを今でも覚えています。







高校は文系で、大学は教育学部、中学から社会人までずっとサッカー、という文系+スポーツの人間です。初めてさわったコンピュータらしいものは父親の持つワープロだったと思います(興味はあって色々いじってはいました)。

少し話はそれますが、サッカーは最終的に東京都1部リーグに"所属"するところまでいって(サブメンバーでしたが)26歳で引退しました。叶わないと思いながらもプロを目指していたこともあり、その後も僕は何かの「プロ」を追いかけている人生のように思います。





そんな僕でしたが、なんとなく「この先コンピュータの時代が来る」と予感をしていました。しかも興味だけはすごく持っていたので、まったくの未経験でもプログラマ育成してくれた会社に入社できたのは本当に幸運でした。(今でもその会社には感謝しています)






ただ、僕の中で拭い切れない想いがずっと頭にこびりついていました。




「人生なんて一度切り」

「世の中には自分の知らないことがたくさんある」

「このまま同じ会社を勤め上げる生き方が正解なのか?」









僕は連休や有給休暇を使って日本を旅するようになりました。年に2回ほどローカル列車に乗って、冒険のように見知らぬ土地に行くようになったのです。

前編はもういい、後編を読みたい!(後編)を読む >


自分はなにをして生きていけばいいのか


旅の最初はただ自分の脳ミソに刺激を与えるつもりで、列車を乗り継いで「千葉(当時住んでいた所)ー山梨ー長野ー新潟ー帰路」とほとんど移動だけの旅をしました。

それがいつしか自分探しの旅になり、まだ行ったことのない地を巡っての日本を知るための旅になっていき、年2回ほどの旅を自分への義務と位置づけるようになっていきました。例えば本州最東端の岩手県魹ヶ崎(とどがさき)や鹿児島県は屋久島の屋久杉などは印象深い思い出です。






「自分はなにをして生きていけばいいのか」




会社を辞めた後の旅で、京都の天橋立(あまのはしだて)に行ったときでした。

何をして生きていくか・・・・・・。夜空の下で、消去法をしながら出した答えが、笑われるかもしれませんが歌詞をつくる「作詩家」でした。







背景には「色彩」がありました。会社を辞めてすぐ色彩講座を民間スクールで学んだのです。大学時代からなぜか「色」に興味を持っていました。

色を学んでみると、日本には古くから興味深い色の名前をつけていたことが分かりました。例えば「甕覗(かめのぞき)」って何色か分かりますか?答えは薄い藍色です。藍を染める甕に入れて間もない頃に覗いてみたときの色です。こんなふうに暮らしに根ざした色の名前がたくさんあります。

「日本語というのはなんだか面白いぞ」「日本というのはとても奥深い国なのではないか」と、「日本」と「日本語」に非常に強い関心を持つようになっていきました。





考えても見て下さい。

日本はアジアの端っこ、太平洋の辺縁にあるちっぽけな島国です。それなのに先進国であり都市は発展し、でも自然はたくさんあります。地理的に見ても台風の通り道で、多くの災害をもたらす反面、浄化などの恵みをもたらしてくれます。例えば高知県の四万十川は台風があるから清流を保てるのだそうです。




そしてなんと言っても江戸200年が磨きをかけた世界に類を見ない独自の文化があります。日本語は漢字・ひらがな・カタカナと使い分けられて優れた言語性があります。いやー、これほど面白い国は他にありません!(他国を知らないくせに)





そういったことを考えた結果、日本や日本語に関する仕事で、しかもうまくいけば印税生活ができるという甘い幻想を抱いて導かれた答えが「作詩家」だったのです。




目標も立てました。




「百年残るものを創る」




作詩なんて当然やったことがないですから、ダメもとで死ぬまで叶わないくらいのものが良いと、この目標(あるいは人生テーマ)を掲げました。






しかしこれが偶然か必然か、僕に「生きる目的」を与えてくれました。どう生きていいか分からなかった未来に、遠くかすみながらもうっすらと紺碧の旗が掲げられたのです。

余談ですが、人は目的を定めると前に進んでいけるのだと知ることができたのは、この人生テーマを掲げたお蔭です。






希望の光は、感謝の心も芽生えさせてくれました。そして「この面白い日本に感謝を込めて、僕の経験を日本に還元しよう」と思えるようになりました。

目標(人生テーマ)には「日本への還元」も加えました。さらに初心忘るべからずで「一生勉強」も加えて、僕は新たな空の下で動き始めました。



そうして動き出したところで、FileMakerでの着メロの仕事に辿り着いたのです。「多くの音楽に触れられる仕事」を探していた結果でした。人生というのは本当に面白いものです。

平日はそのデータ管理の仕事をして、夜とか休みの日は作詩家を目指す生活が始まりました。それが何とまあ10年ほど続いたのは我ながら驚きです(ほとんどギター弾き語りのシンガーソングライターをしましたが)。

作詩・作曲・唄・ギターは26歳から始めましたから、はたから見ればオカシイ人だったかもしれません。





人生の目標が決まり、FileMakerの仕事にありついた頃の預金残高が5,000円くらいでしたか、かなりギリギリのところからのスタートだったと記憶しています。

そこから1日500円で過ごして少しずつお金を貯めました。貯めていく中でギターを買い、作詩をし、旅に出て、本も買い、FileMakerも勉強しました。人間やればなんとかなるんですね。






でも・・・・・・

10年ほど経って、このままでは目標を達成できないとようやく気づきました。音楽の世界なんて、食っていけるのはほんの一握り。僕は芽が出ないまま一旦音楽の活動を休止することにしました。

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振り返ってみると、新たな人生の基盤を支えてくれたその着メロ会社は本当に有り難かったなと思います。(残念ながらもうその会社はありません)

そして僕はまた新たな世界へと吸い込まれていくことになります。



ビジネスの世界へ


作詩家は一旦休止しましたが、人生テーマ「百年残るものを創る」に則して生きるためにどうすれば良いか、再び探し始めました。







「日本」「百年」というキーワードから、書や陶芸なども経験してみました。

その中で最も現実に近いと思ったのが水墨画でした。(まだFileMakerではありません)






渋谷にある水墨画教室では、しっかり学べば認定資格を得て講師として活躍することも出来ると知り、2年間通って認定資格の権利を得るところまできました。

しかし立ちはだかったのは、今までの人生で経験したことのない「商売」「ビジネス」というものでした。

水墨画教室をやるには場所が必要ですし、道具も必要です。認定ロイヤリティの支払いもあるし、とにかく固定費がかさむことは容易に予想され、そのくせ収益の目処もなく自分で集客する知識も手段もありませんでした。






お恥ずかしい話ですが、30年以上も生きてきてビジネスの「ビ」の字もまったく知らない青二才だったのです。

そこでビジネスの勉強をした方が良いと考え、水墨画講師の道はひとまず凍結しました。

ビジネス書を漁っているうちに、ビジネスなら資産を築けるかもしれないと思えてきました。資産が出来れば「日本への還元」もできるかもしれない、「百年残るものを創る」時間もできかもしれない、そんなロジックが頭の中に作られていきました。








そして、ついにFileMakerと再会するのです。



FileMakerとの再会


ビジネスの勉強をするにも生活費が要るので一旦定期の仕事に就くことにしました。

どのみちどこかに属して働くならと、もう一度FileMakerをやりたいと思ったのです。

自分で作る楽しさの記憶がしっかり残っていたため、浮かんだ考えでした。







数年で何とかするつもりだったので派遣にしました。通勤の時間がもったいないので家の近くの仕事を探し、運良くすぐに見つかりました。

広告代理店の会社で、5~6名の部署に配属されました。基幹システムはあるものの細かい集計などができないことからFileMakerで経営指標を出そうとトライしていて、人が足りず募集していました。







僕としては職種は特に何でもよく、FileMakerで何か作りたい、もう一度作る喜びを味わいたい、そんな思いで意気揚々と出勤し始めました。

これから行く先に待つ不穏な空模様に気づかないまま・・・・・・





(後編)へ続く >












今日も良い一日を♪





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